立野さ~~~ん! 今、“そちら”で何をしていらっしゃるのでしょうか。きっと満面笑みで、でも、ちょっとシニカルに、みんなと議論していらっしゃるかもしれませんね。貴女が私たちの所からいなくなってしまって、もう8年が過ぎ去りました。
「嶋田さんは、どうしてもっと物事を批判的に見られないの?」
「貴女の書く文章には、学習者に『~させる』が多いわねえ。それに『~べきだ』『~なければならない』も多いなあ」
二人でいろいろなことを議論しながら、立野さんからたくさんのことを学びました。
今年念願の初級教科書『できる日本語』(アルク)を出版した私は、どうしても貴女とおしゃべりがしたくなりました。それは、「ねえ、嶋田さん、次は一緒に教科書を作ろうよ」という貴女の言葉が今も耳に残っているからなのです。
私たちが共通して持っていたのは、「日本語能力試験対策に走る日本語学校を変えたい。何のための日本語教育なのか。それをしっかり考えて、「学ぶこと」を重視した教育を広めていきたい」という夢でした。そして、立野さんはいつも「教師の意識改革を図るには教科書を変えなくちゃ!」と主張していました。
しかし、当時私は「う~~~ん、それは分かるけど、教科書開発は大仕事だからねえ」と曖昧な返事を繰り返すばかり・・・・・・。そんな私が、大勢の仲間と一緒に教科書開発を始め、今も走り続けているのは、何だか不思議な気がします。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
YMCAの主任教員、大学の非常勤講師をしながら、日本語学校の牽引車であった立野みどりさんが亡くなったのは、2003年5月のことでした。2年近くの闘病生活の後、ついに癌に命を奪われてしまいました。今でも彼女の壮絶な言葉が耳に残っています。
「ねえ、なんで私が死ななきゃいけないの。いっぱい、いっぱいやりたいことがあるのに……。ひどすぎる、ひどすぎる。日本語教育、いっしょに変えようって言ってたのに」痛みと戦いながら私にそう語った彼女に、「大丈夫、一緒に教科書を作ろうよ。いろんなこと、一緒にやろう!」と答えるしかありませんでした。
立野さんに出会ったのは1998年秋、日本語教育振興協会主催の第二回箱根会議(日本語学校の教育責任者による日本語教育セミナー)でした。たまたま同室になった私たちは、夜を徹しておしゃべりに興じました。初めて出会ったのに、意気投合した私たちは、「学ぶこと・教えること」について語り明かしたのです。
「はじめに文型ありき」の日本語教育を変えたいと思った私たちは、早速行動を開始しました。2000年度文部省補助事業「教材等研究・開発等」として共同研究に取り掛かることにしました。テーマは「留学生・就学生に日本語コミュニケーション能力を涵養する―初級の教室活動案作成を通して―」。そして翌2001年度は「中級の教室活動案作成を通して」をテーマに共同研究を行いました。 共同研究「初級」 共同研究「中級」
病魔が彼女を襲ったのは共同研究2年目のことでした。「すぐ治ると思うよ」という言葉を信じて、共同研究のミーティングでせっせと立野邸に通いました。その共同研究が終わりに近づいたあたりで、彼女は弱音を吐き始めました。「私、いつまでこの世の人間でいられるのかなあ~~~」
アルクから「日本留学試験の問題集を作ってもらえませんか」という依頼が舞い込んだのは、そんな時のことでした。私は、「新しい問題集を作ることで、立野さんに生きる力、遣り甲斐を少しでも持ってほしい」と、共同執筆のお誘いをしたのです。問題の案を練っている時の彼女は、本当に楽しそうでした。「ねえ、ねえ、これってどう?」と語りかける立野さんはまるで童女のように見えました。
その問題集は『スコアアップ問題集 聴読解・記述』ですが、日本留学試験の改定に伴い、今年春『速攻トレーニング聴読解』『速攻トレーニング記述』と2冊の本に生まれ変わりました。作っている間、なんだか立野さんが傍にいるような気がしてなりませんでした。
そして、「文型積み上げ式」ではない教科書、『できる日本語 初級』がついに刊行されました。本来なら立野さんも一緒に作っていただろう初級総合教科書を手にして、私は涙がこぼれそうになりました。これからも教科書開発はまだまだ続きます。いろいろな人に支えられ、協働性と同僚性を大切にして、1日1日を大切に過ごしていきたいと思います。
初級教科書『できる日本語』の完成、おめでとうございます!!!
さっそく澤田さんから送っていただき、自分がなにをしたわけでもないのに、「あぁ・・・ようやくできたか・・・!」と手にとってしみじみ感動しました。
YMCA東京日本語学校の校長が、全国のYMCAで日本語をやっているところへ、
「YMCA内営業担当として宣伝がんばる!」と言っていました。
ぜひご期待ください。
立野先生は、私の中でも、いまもバリバリに生きていらっしゃいます。
きっと、いっしょに教科書つくりたかったでしょうね・・。
天国便があればすぐに送って差し上げるのに・・・残念でなりません。
でも立野先生のことなので、「さぁ嶋田さん、つぎは中級よ!」と、おっしゃってますね。きっと。
大矢さん コメントをありがとうございました。やっと、やっと『できる日本語初級』が出来上がりました。イーストウエスト日本語学校の作成メンバーは、本当によく頑張っています。このあと次々出版する予定です。
「この教科書を作ろう」という思いの土台にあるのは、立野さんとの「対話」です。いつかみんなでお墓参りに行きましょう!
嶋田さん こんにち
昨日眠れない時、Internet で立野先生打つと
嶋田さんの記事が出来てきた、この立野先生は
百バセント私ずっと探してる先生です。
私は二十二年前に日本に居た時、
立野先生は当時の担当先生でした。
台湾に帰っても香港に住んでも
いつも手紙で連絡していたが2001年、
次男が生まれてあまり忙しくて書きませんでした。
2003か2004でまだ書き始め、しかし、
全部戻ってきた。2005年の時、日本領事館の友達
立野先生がなくなったのがわかりました。
涙がぼろぼろでした、機会があったら
お墓参りいきたいです。沢山話があります。
連れていかないでしょうか?
急に下手な日本語で連絡しますがとてもすみません。
陳
陳さん メッセージをありがとうございました。
私も立野先生が大好きでした。本当に素晴らしい友達でした。
何度かご自宅にお線香を上げに、伺いましたが、お墓参りは
出来ずにいます。ご家族が「お墓参りはちょっと・・・」という
ことでした。きっといろいろ大変なのだろうと思い、自分で手を
合わせています。
陳さん、そのころいらした澤田尚美先生をご存じですか。
澤田先生は、私が前いた学校(イーストウエスト日本語学校)
にいらっしゃいました。そして、2年前に学校をやめ、今は
台北にいらっしゃいます。もしお会いできたら、いいですよね。
このコメントはあまり見ていないので、今後はメールをくださいますか。
kazushimada@acras.jp
フェイスブックもやっています。
こうして陳さんと立野先生のことを話し合えたのが、とても嬉しいです。
嶋田和子