留学生が日本で「思ったこと・感じたこと」

 JanJanのコラム「ワイワイガヤガヤ日本語学校」を始めてから3年半近く経ちました。少しでも日本語学校や留学生たちの姿を一般の方々に知っていただきたいという思いで始めたコラムでしたが、時には留学生自身が「JanJanに投稿したい」と持ってくるようになりました。そのJanJanが休刊になることを知り、彼らがどんなに残念がったことか知れません。これまでに留学生自身が投稿した記事は34件、そして私の記事の中でたくさんの「留学生の言葉、思い」をお伝えしてきました。
 本日は2つの作品を私が説明を加えながら、ご紹介いたします。これが最後の「留学生の作文紹介記事」になることが残念でなりません。

 まずは、朴厚生(パク フサン)さんの「孤独」という作文です。ソウル出身の彼は、今年3月にイーストウエスト日本語学校(東京・中野)を卒業し、専門学校に進学します。将来シナリオ作家になりたいという夢があり、在学中も暇を見つけては、韓国語や日本語で思いを文に綴っていました。この作文は、外国で暮らす一人の留学生がふと感じる「孤独」を、猫との出会いを軸に彼らしい表現で書き記しています。

「孤独」
         
 朴 厚相(パク フサン)
 
 家を出たとき、隣の家の壁の前に座っていた猫が見えなかった。少し慌てて周囲を見たら、うちの2階ベランダに座って居るのを見つけ、安心しながら足を運んだ。
 
 留学してからもう3ヶ月。知り合いの人たちと会うと皆、「大丈夫?」、「お金は?」、「学校は?」と心配そうな目で見ながら、問う。先週、日本に遊びに来ていた友の見送りをする為に空港まで行った時、友人が言ってくれた。
 
 「寂しくはない?」
 
 いきなりの質問だったので「大丈夫だよ。」と答え、友人を見送った。その後広い空港の中に俺一人で立っている現実がとても寂しくて、体に寒気が来た。家に帰る1時間、寒気は消えなかった。
 
 体の寒気を消すために風呂の後、ベットに横たわったまま考え始めた。孤独とは何か。そう考えている途中、留学する前、父親が言ってくれた言葉を思い出した。
 
 「ほんとに大丈夫か?」
 
 私はあの時この言葉の意味を「留学して成功できるか?」と理解したのだが、そうじゃなかった。
 
 「一人で留学して寂しくないか?」
 
 大人になったら孤独を知り、その恐ろしさを知る。たかが7歳、8歳の子供が理解できるものではない。過去の思い出を味わい、その最後で苦しく感じるのが孤独。人生が長くなるほど孤独もより大きくなり、結局その大きくなった孤独だけを抱いたまま地に帰るのが人生なのか。孤独はいつかやってくる。その孤独をスコシズツ知りながらおとなになったら、子供たち、のちの大人になる子たちにそれを教えられる「孤独を知る大人」になれるだろう。時計を見たら、12時になっていた。眠気に身を任せる途中、空港に行く前に母親が言ってくれた言葉が思い出した。

 「多くの物を学べる遊学になったらいいね」
 
 今日も家を出たら、壁面に座ったまま、私をガン見している猫がいた。「今日は私が居なくて寂しかっただろう小僧、今日は君のために座っていたから餌でもくれよ」と言う様な顔をして、猫が近寄って来た。猫はほんとにその気で近寄ったのかは分からない。ほんとは俺なんか彼にとって周辺に転がる石ころと同様かも知れない。でも確実なのは、私に孤独を教えてくれた先生たちの一匹だって言うことだ。
 
 でも餌はやらない。
 


 
 もう一つの作文は、朴燦雨(パク チャンウ)さんが書いた「ドキュメンタリーで感じた日本」です。これは、NHKスペシャル「大きないちょうの木の下で」という番組を使った授業のあとに書かれた感想文です。宿題でも課題でもなく、1時間の授業終了後、自発的に書いた作文でした。
 
 実は、授業が終わってすぐ彼は担当教師の所にやってきて、「先生、本当に感動しました。ぼくは韓国で外国人労働者支援のためのボランティア活動をしたことがあるんです。そのとき、いろんな問題があると感じました」と話し始めたのです。そこで、教師は「だったら、今のその思いを作文にしてみない?」とパクさんに言いました。数日後、楽しみに待っていた教師たちの元に、次のような作文が届きました。
 

「ドキュメンタリーで感じた日本」

     
 朴燦雨(パク チャンウ)
 
 私は学校で積極的な学生ではありません。日本語学校に通っているのに、日本語に興味があると思っていないからかもしれません。しかし今日の視聴覚授業は私にとっては特別な授業でした。
 
 日本にいる外国人労働者が来日した理由は様々です。今日の授業は、その外国人労働者の子どもたちの話で、その子供たちが「自分は一体何人で、どんな生き方をしていくのか」と考える姿を見ました。私は、この番組を見て、自分の高校時代を思い出しました。
 
 社会科の授業で、教師が通っている奉仕団体に行く機会ができたことがありました。その団体は、外国人労働者の人権を保護し、一緒にいろいろと話し合う団体でした。その奉仕団体で出会った人たちは国の家族のために、悪い環境をものともせずに働いていました。私は、その人たちと一緒にサッカー試合をし、食事もしながら、楽しい時間を過ごしました。しかし胸が張り裂けるような話を聞いて、涙ぐみました。その人たちは「他国人だから」差別を受けていました。その差別は目に見えない差別でした。外国人労働者だからという理由だけで差別を受け、苦しんだ話を聞いて、まず私だけでも偏見を捨てようと、何度も何度も自分自身に念を押しました。その人たちは、他の一般の労働者と同じ、誰かのために、そして自分のために働いている人たちでした。
 
 今日授業で見たプログラムで印象に残ったのは、「自分は一体何者なのか」と自分の正体を探していく10代の小学生でした。その子は、日本で生まれ、日本で育ち、日本で勉強しているインドシナ難民の子どもでした。社会の壁を見たこともない小学生が、「自分と普通の日本人の小学生との違い」を知り、自分は日本人なのか、ベトナム人なのか、何者なのかと、そのルーツに苦しみ悩む姿を見て、涙が出るほどの悲しみを感じました。私は、このような子どもたちが、自分自身が日本にいる理由や他の人たちと自分の違いを理解し、「国家」というものには縛られずに、自分なりの価値観で見事に生きていくことを願います。
 
 このプログラムは、社会的弱者、中でも外国人労働者の子どもたちに焦点を当てていて、その子どもたちが日本で暮らしている中で感じる複雑な心情を察することができました。私は、このプログラムから、日本の成熟した社会を見ました。ただ「関心を持つ」というのではなく、「配慮」を見ました。
 
 私は、桜の日本にも高層ビルの日本にもあこがれたことはありませんでした。だが、今日の授業で、明るい顔をして勉強している外国人労働者の子どもたちがいるその教室から、真の日本の美しさを見ました。

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