韓国から来た「さっちゃん」の奮闘記

 白神山地の南側に位置する「藤里町」(秋田県山本郡)に、一人の女性が結婚のため韓国から移り住んだのは1997年の1月のことでした。彼女の名前は佐々木幸子さん、今では人口4,000人余りの藤里町の人気者です。
 実は、そんな溌剌として元気いっぱいの幸子さんにも大変な時期がありました。慣れない日本の生活や習慣に戸惑い、日本語ができないことに涙した時期もあったのです。何度か調査のために藤里町を訪れすっかり親しくなった私は、今回幸子さんからすてきなプレゼントを受け取りました。それは、彼女の体験・思いがぎっしり詰まった「第二のふるさと-藤里町」というタイトルの作文でした。
 
 「ねえ、さっちゃん、これ、インターネット新聞に載せてもいい?」という私の問いかけに、「いいですよ。私の経験がほかの人の役に立つならね」と、即座に快諾してくれました。50歳になっての日本での新しい生活、還暦を過ぎての日本語能力試験への挑戦、彼女を見ていると年齢の壁を感じさせません。「いつも新しいことやってると、楽しくて」という幸子さん。何年か前からは、丹精込めて育てた野菜でキムチを作り、産地直売所「白神街道ふじさと」で販売を始めました。それからますます地元の人達との交流が深まっています。

佐々木幸子さん(左端)仲間と一緒に記念撮影


 【さっちゃんの作文】(句読点、分かち書きなどはすべて原文のまま記してあります)
 
 藤里町の人は とても やさしいです。
 近所の人たちは 私に たくさんのことを おしえて くれました。
 私は 韓国では 農業をしたことが ありませんでしたから 畑の うねの作り方も 手を取って 教えて もらいました。たとえば、農薬のことは 畑で虫を見つけると ビンにいれ 近所のおじいさんに もって行くと その虫と農薬を 一緒にして 説明してくれました。
 私の家は 主人と 主人のお母さんと 私の3人家族ですが、主人は 仕事で あまり 家に いませんでしたから、お母さんと ほとんど2人の生活でした。
 お母さんは 私を 娘のように思ってくれ 包丁 ナベ あいさつのことばなど教えてくれました。
 あるとき、近所の ふうふが 大ゲンカを していました。「ばかやろう ばかやろう」を 何度も 言いますから 私は お母さんに聞きました。お母さん ばかやろうは 何の 意味ですかと。お母さんは いやな事や きらいなものに 言う言葉だと 教えてくれましたから 次の日から ねこが いたづらすると 「ばかやろう」 いぬが ほえると 「ばかやろう」 気分が悪いと 「ばかやろう」と 大きな声で 私は言いました。
 お母さんは 町の集会で みんなに お願いしたそうです。どうか 幸子のために あんまり 大きな声で ばかやろうと 使わないで下さい。何でも そのまま まねを しますから お願いしますと 言ってくれたそうです。
 私は お母さんが いなかったら 多分 藤里町に いられなかったと思います。
 
 そんな生活でしたから、私は 日本語なんか 勉強しなくても だいじょうぶ 生活に 問題ないと 思っていましたが、ある日 問題が おきました。
 家の中には 農協や 役場から来た 手紙がたくさん ありました。
 私は日本語が読めなかったし、わかりませんから、きょうは へやを きれいに 掃除しようかなと思って 家にある手紙を みんなすてて きれいに 掃除しました。
 きれいに 掃除したから ほめられると 思ったからです。
 
 3月に 税金申告が ありました。家の中がへんな 雰囲気でした。
 ことばも 意味もわかりませんでしたが なんだろう なにが あったんだろうと思いました。主人は 農協をまわって、お母さんは役場へ行って ぶじに 申告は 終わったと思いました。その夜 主人は マッチと 手紙を 私の前に もってきて 私に ゆっくり 話しました。これを もやさないでね、こうしないでねと言いました。ひとことも おこりませんでした。瞬間、私の目から なみだが ぼろぼろ でました。
 山へ はしって おおごえで 「ああああ」と いっぱい 泣きさけびました。
 韓国語で草に話しました。いつになったら 話が できるんだろう。読めるんだろう 日本語、日本語と 心に なんかいも言いました。読むことができたら、意味がわかったら
 めいわくを かけないのに・・・だれに これを話したら いいんだろうと 思いました。
 藤里町には 国際交流協会がありますから「日本語教室を つくって 下さい おねがいします」と一生懸命 お願いしました。それから 3か月ぐらいして 日本語教室ができました。とても 嬉しかったです。
 

 こうして幸子さんは日本語の勉強を始めました。そして、日本語教室の北川裕子さんに勧められ、日本語能力試験3級に挑戦し、見事合格したのです。そのニュースは、地元の新聞に載り、幸子さんは一躍藤里町の「話題の人」となりました。その時のことを彼女は次のように記しています。
 
 【さっちゃんの作文】
 
 日本語を 勉強する 大切さが わかったし もっと 勉強して 藤里町の人たちに韓国語を 教えたり、私を助けてくれた 町の人たちや お年寄りの お世話をするボランティアもしたいと思ったとき、日本語の先生が 日本語能力試験を 受けてみないかと言いました。
 
 私はもう 年だし、自信は なかったのですが 先生に だいじょうぶだから がんばってみましょう と言われたので、ひっしで 勉強しました。2007年12月 東京へ試験を受けに行きました。東京の試験会場では 全国から たくさんの 外国の人達が みんな 真剣な顔で 試験を 受けていました。
 
 私は ドキドキしたのですが、なぜか とても うれしくなりました。
 私のような年齢で 何も話せなかった自分が 東京まで来て 若い人たちと 一緒に 試験を 受けている そう思っただけで とても しあわせな 気がしました。

OPI(会話試験)を受けている幸子さん


 試験に合格した幸子さんには「韓国語講座」の話も舞い込んできました。その時幸子さんはどんなにか嬉しかったことでしょう。日本語で、日本人に韓国語、韓国の文化を話すことは、幸子さんにとって大きな夢だったのです。こうして、日本語を知ること、使えるようになることで、どんどん人の輪が広がり、さまざまな人とコミュニケーションができるようになることの楽しさを、彼女は次のように表現しています。
 
 【さっちゃんの作文】
 
 日本語を 勉強することで 多くの人達と 出会って 受け入れてもらって 私の 国のことも 話せる 自分がいます。
 
 自分に 自信がつきました。友達の輪も広がって 私は今 藤里町のさっちゃんとして チョット 有名になっているかも知れません。
 
 主人とお母さんと私の 3人の生活は とても 楽しいです。
 もっともっと日本語を きちんと話せるように なりたいと思います。2級も とりたいのですが なかなか むずかしいです。でも がんばります。
 
 私は 韓国から来て、日本の文化も習慣も何も分からないで結婚しました。でも、自分が努力すると いろいろな人たちが助けてくれます。最初は 意地悪だとか こわいと思った人も 分かってくると 私の誤解だと 気がつきます。

明日のスピーチの練習をする幸子さん


 幸子さんの作文を読み終えて、私は定住外国人にとって日本語を学ぶことの意味を改めて考え始めました。定住外国人の数は220万人を超えました。日本語を学ぶ機会もなくひたすら仕事をしていた日系ブラジル人が、リーマンショックで不況に陥るやいなや「日本語ができない」という理由で解雇される事件が起きました。また、日本語の問題で子どもの学校とうまくやり取りができず悩んでいる定住外国人配偶者、日本の学校についていけない外国籍の子どもたち……。日本社会には日本語の能力の問題に悩むさまざまな人達が暮らしているのです。
 今、以前よりさらに一層地域社会における日本語支援が求められています。そのために何を、誰が、どのような形ですべきなのか。これはみんなで一緒に考えるべき課題であり、一刻も早く充実させることが求められています。
 「第二のふるさと―○○町」という作文が、日本のあちこちで生まれてくることを願いながら、白神山地の玄関口である大館能代空港をあとにしました。

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