日本の教育を抜本的に変えよう!~企業は「主体性・創造力が欲しい」と言うけれど・・・

 

http://www.asahi.com/business/update/0207/TKY201102060293.html?ref=goo

今朝の朝日新聞に、経団連のアンケート結果を扱った「主体性・創造力が欲しい」というタイトルの記事が載りました。アンケートによると、「最近の学生に不足している素質」は、「主体性」89.1%、「能力・知識面で不足」に関しては、既存の価値観にとらわれない「創造力」が69.3%という結果でした。こうしたことから、大学に「教育方法の改善」を求めたいという回答が76.5%を占めています。

若者の「主体性・創造力不足」に関しては、かなり前から言われていたものの、アチコチで単なるグチや批判で終わり、「なぜそうなったのか?」という根本的な議論はほとんど行われてきていません。抜本的な改革もなく、うやむやな状態で綿々と学校教育が行われていること事態が大きな問題なのだと思います。しかし、ここできっと次のような反対意見が出てくることでしょう。

○    いや、総合的学習を入れた時期もあるし、いろいろ教育改革は行われている。
○    ゆとり教育の問題を改善すべく、抜本的な改革を行ったじゃないか。
○    OECDの試験結果を見て、学習すべき内容の見直しも図っている。

確かに、時代とともに教育もいろいろ姿かたちを変えてきました。しかし、十分に現状を把握し、今抱えている問題をあぶり出し、「なぜそうなったのか?」「今、我々に何が足りないのか?」というクリティカル・シンキングはほとんどなされていません。OECDの結果が悪くなったからといって、授業時間数や内容を詰め込んでも、意味がありません。問題は他にあるのですから~~~。

そこで、日本語教育に携わる者として、日本の教育の問題点について考え、次にそうした問題がなぜ起こるのかについて述べ、最後に「では、どうしたらいいのか」、いくつかの提言をしたいと思います。

【日本の教育の問題点】

1.まだまだ「知識の多寡を問う教育」が主流となっている。もっと問題発見解決能力を育てる教育を行うべきである。それができない理由の一つとして、1つには教師研修が十分ではなく、教師自身の意識改革に問題があると思われる。

2.「対話力」を育てる教育ができていない。プレゼンテーション能力、ディベート力などには関心があっても、「対話」に目が向いていない。対話とは「異なる価値観を持つ者同士が、話し合いをし、そこから新たな価値を作り出していくこと」に意味がある。しかし、日本の教育では、真の意味での「対話教育」に目が向いていない。

3.学校教育=教室という考え方ではなく、もっと社会と繋がる教育を考えるべきである。また、「学び方を学ぶ」といった根本的なことが抜け落ちている。主体的・創造的な学びをもっと小さいうちから行うことが重要である。大学生に「主体性・創造力が足りない」と叫ぶのは筋違い。小学校から大学まで、垣根を越えて一貫性のある教育が行なわれていないことが大きな原因の一つである。教育全体の見直しが喫緊の課題である。

では、どうしたらいいのか。学習指導要領がない、多様な学習目的・背景・学習スタイルを持つ外国人が学ぶ日本語学校の教師として、提言したい。

【日本語教育から日本の教育への提言】

■もっと異なる文化・考え方を持った人々と触れ合う機会を日常的に持つべきである。海外に出かけなくても、日本社会には220万人を越える外国にルーツを持つ人々が生活している。彼らと触れ合うことができる教育を行うべきである。それは、一過性の「イベント性」を帯びたものではなく、持続可能な双方向の「対話型」の触れ合いを意味する。そのためには、縦割り行政を改め、包括的なシステム作りを考える。
人は他者との「対話」によって大きく成長し、主体性・創造力もそこから自然に生まれてくるのである。多くの留学生が学ぶ日本語学校と連携した新しい教育プログラム作りを提案したい。

■企業の就活文化を改めるべきである。「留学をしない若者」が大きな問題になっているが、現在のように3年生になったとたんに、就職活動開始というスケジュールでは、「自分を見つめる海外留学」「多様な体験を提供してくれる海外留学」「さまざまな文化・価値観に触れるための海外ボランティア活動」などといった悠長な体験は、魅力を感じながらも諦めざるを得ない。若者から元気を奪っているのは、社会を作っている私達であることを忘れてはならない。10年後、20年後、よれよれになった日本社会で、企業が元気でいられるはずがない。企業・大学間での「就職協定」について話し合いを一刻も早く行うべきである。

■    日本語教育を小学校から実施すべきである。国語科ではなく、日本語科である。「伝え合う力・自己表現する力」を育てる学びを小学校からもっと入れていく必要がある。小学英語は、「コミュニケーションの楽しさや面白さを知る」ためにあるのだと言う。なぜ英語でなければならないのか。まず母語である日本語によるコミュニケーション力の涵養を考えるべきである。もちろん外国語を学ぶことは意義あることと思う。異なる考え方・文化をできるだけ小さい時から学ぶことは望ましい。それがなぜ一律に英語である必要があるのか。英語がグローバル言語だからなのか。私は、むしろ隣国の言語であり、日本語とよく似た構造・語彙を持つ韓国語を学ぶことも大きな意味があると考える。

3つの提言を行ったが、教育は待ったなしである。その人の、その時期は、二度と訪れない。また、教育行政の失敗は、20年後、30年後に大きなツケとなって現れる。

今、私たちは日本の教育を真剣に考え直し、教育行政を大きく変えていかなければ、大変なことになると、危惧の念は増すばかりである。

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