「日韓の架け橋になりたかった」留学生の遺志を継ぐ

2001年1月26日、JR新大久保駅のプラットホームから落ちた人を救おうと、線路に飛び降りた2人の男性をご記憶でしょうか。一人は関根史郎さんという日本人のカメラマン、そしてもう一人は日本語学校に通う韓国人学生でした。

賞状を手にしたギスンさん

亡くなった李秀賢(イ・スヒョン)さんは、韓国の大学4年生でした。1年間休学し、日本語・日本文化を学びたいとやってきたのです。彼の将来の夢は「韓国と日本の架け橋になる仕事をすること」でした。

スヒョンさんは、夢叶うことなく東京の地で亡くなってしまいましたが、ご両親は「韓国と日本の架け橋になることを夢見た息子の意志を継ぎたい。今できる ことは日本語学校で学ぶ留学生・就学生たちに奨学金制度を作り、支援すること」と寄付を申し出てくださったのです。その時の寄付金1,000万円を基に 「李秀賢顕彰奨学金」(
http://www.lsh-asia.org/)の授与式が催されました。

イーストウエスト日本語学校では、今年度は李基丞(イ・ギスン)さんが奨学金をもらうことになりました。この奨学金は各日本語学校で出席率が良く、真面 目な態度で学業に励んでいる学生に申請資格があり、さらに400〜800字の「作文」が審査されます。ギスンさんが書いた作文に私は胸を打たれました。ま だ日本に来て1年足らず、中級クラスで学ぶ留学生ですが、自分自身の経験とスヒョンさんの行動とを結びつけ、自分の思いをしっかりと表現してくれました。

みんなで記念撮影

ギスンさんは、日本の専門学校でファッションデザインを学び、さらにイタリアなどで勉強を重ね、いずれは韓国で自分自身の店を持ちたいという大きな夢を 持っています。夢を叶えることなく異国の地で亡くなったスヒョンさんの分も、きっと頑張ってくれることと信じています。ギスンさんの文章を、以下に紹介し ます。

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李秀賢君の生き方と私   イ・ギスン

1分間で彼がしたことを聞いて、感動した私。普通の日と何も違うことがなかった授業時間、その時私は先生からある留学生の悲しい話を聞いた。彼について 分かったのは、私と同じ母国の青年ということ。彼が遭ったそのむごい事故は私の頭の中を通り過ぎて、心のかたすみを温かくしてくれた。その温かさというの は悲しみや感動などではなく、瞬間の犠牲精神、まさにそれだった。彼をもっと理解できて、彼の心をもっと感じられたその理由の一つは今から2年前の私がい たからだ。

雨が降っている夜、私は高速道路を走っていた。途中で全面がひどくこわれたまま、道ばたに止まっている車を発見した。つい行ってしまおうと思ったが、た まらなくなって、車を止めておいて、その車の方向に走って行った。そこには50代に見える女性が意識を失って倒れていた。私は彼女を救うために、救急申告 をして、彼女が意識を取り戻すため努力した。15分後、ついに救急車が来て、彼女を救け始めた。

その時の私は本当に恐ろしかった。私の手、行動によって、ある知らない人の生命と人生がかかっていると感じたので、頑張らなければならなかった。

2年が経った今、先生から李秀賢君のことを聞いて、彼の切実な瞬間を見なくても、私はあの時の私の心臓音ぐらい切実だったことが感じられた。

彼は恐れと恐怖の中でも、自分の人生と比べないで、その犠牲的な瞬間にあって、他の人生に光をあげた。そして、彼の勇気と犠牲精神はいまだに私の心の中に残っている。

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