今年3月に卒業したパク・ジャヨン(朴柘盈)さんは、文章を書くのが大好きな韓国からの留学生です。4月からは、京都の大学で漫画を勉強することになっています。彼女は在学中から日本で気づいたこと、ふと思いついたことなどを彼女なりの表現で書き留めていました。それは、母語である韓国語ではなく、習い覚えた日本語で書かれたものでした。彼女がイーストウエスト日本語学校で日本語を勉強したのはたった1年。その彼女が卒業を前にして、『皿回し』というエッセイをもってきてくれました。タイトルからは、明るい演芸のようなイメージを受けましたが、読んでみるととても内容の深いものでした。パクさんは決して言葉数の多い留学生ではありませんでした。その彼女のこころの中に「こんな思い」があったのかと、はっとさせられました。日本で学ぶ一人の留学生が「どのように自分自身をみつめているか」を考えさせてくれるエッセイだと思います。
投稿者 朴柘盈(韓国)イーストウエスト日本語学校
2008年4月12日投稿
日本に来て丸1年たった。その間に悲しいこともあって、そのおかげで嬉しいことも知りました。いまの私がそうだから、考えられることなのかも知れません。でも、たまたま、ちょっと考えただけなので、どうか笑わないでください。
本当の自分というものは空の上、遠い雲の上にいると思いついた時がありました。自分が立っている場所は、他でもない回っている皿の上です。最初に生まれた時は親にまわされているけれど、その時はぼんやりしていてよくわかりません。でも、いつの間にか「自分の性格や経験から生まれる世界観」によって、自分自身で早さを調節しながらぐるぐるまわし始めます。初めは、焦って、なにをどうやるかわからなくて目が回るけれど慣れれば落ち着きます。
皿を回しているのは自分自身の「心」。「こころ」という細い棒の上で皿はまわっているのです。
心というものは、一見、硬く崩れないようにみえることがあります。でも、実は人が生まれた時、心は透明で柔らかだったのです。それが、時間がたつにつれて、だんだん固くなり、その色さえも変わって、形も変わってきたのです。本当の心は、崩れやすくて、弱点ばかり……。いつもはらはら皿を支えています。心は、一つ一つが深い傷を負って、いつの間にか姿を隠したりします。よく見ると、その細い棒には赤や青の糸があって、他の棒とつながっています。多分その糸のせいで傷つく場合も多いでしょう。
最初、自分が立っている皿の上は何も見えないところです。自分も何も見えなくて、他の人からもまったく見えないまるで一人ぼっちの状態です。たまたま他人の声が聞こえてきたときに、誰かがいることに気づき、初めて見知らぬ人たちと出会います。そのとき、自分は一人じゃないと知るのです。そして「証」として、細い棒の糸が増えていきます。皿は、棒についている糸でつながりあいます。ところが、お互いのスピードがあわなくなったり、近づき過ぎた皿同士がぶつかったり、お互いの棒は、お互いの糸で傷つきあいながら、時間が過ぎてゆきます。
ときには、心という細い棒があまりにも深く傷ついて、皿の上にいる自分が落ちてしまうこともあります。すごいスピードで落ちていくので、最初はなんだかわけがわからず、自分の目から遠ざかっていく空さえ見えません。墜落感でなにもわからない時間が過ぎて、辺りをみたら、はじめに目に入るものは傷だらけになった棒と皿。心の痛みです。大切にするべきのものが崩れた心の痛み……、何だか他の人より自分が劣っていて、みっともないという思い。悔しさから来る痛みで泣いたり、怒ったりするかもしれません。
でも、人生の中では、そんなことはよくあること。皆それぞれ一度はバランスを崩して、落ちてしまうのです。もしかしたら、苦し紛れに他の皿を落とそうとするような行動をとることがあるかも知れません。でもその苦しさのなかでも時間は進んで、棒は皿を回し続けます。
棒は傷つかないほうがいいのでしょうか……。いいえ、実は、自分の皿の位置が他の人より下だと気づくとか、皿を落とされた人に怒るとか、そんな時がなかったら、心の棒はさらに傷つきやすくなるのです。だから、腹が立ったら、たまには思いっきり怒るのもいい方法です。でも長く怒っていると、それだけ他の人が傷つくのです。そして自分も傷つきます。 それは「もっと惨めだ」と感じませんか?時間がもったいないと思いませんか? できれば崩れた棒、つまり自分の心を早く立て直し、皿をちゃんと回すのが自分の為だと思いませんか。
マイナスの感情は悪いものではありません。怒りや悲しみがあるからこそ本当のうれしさ、幸せを知ることができるのです。でも、人生に与えられた時間は、少しでも幸せと、嬉し涙で過ごし、悲しみや悔し涙は減らそうとすると、「心の棒」は、しなやかで強い棒になるのです。棒についている糸の数も色も増えていくでしょう。
頭の中を真っ暗にして、全てのことをマイナスに考えるのもいいけれど、少しそのマイナスの怒りや涙の時間を減らして、自分がいる場所から周りの空を見て、怒りの時間を抑えてみるのはどうでしょうか。落ちることは意味のないことではなく、周りの空の美しさを知るための経験なのかもしれません。
そしてまた皿の上に立って、人生の皿回しが続いて行くのです。綺麗な空の上を目指してぐんぐんまわして行くのか、まわりの風景を楽しみながらゆっくりまわすのかは自分次第だと思います。
棒を立て直して皿を再び回し始めたとき、他の皿を傷つけまいと思うことをきっと「優しさ」と呼ぶのでしょう。たとえ自分が傷ついても、他の人を、その人の心を思いやるその優しさがあればこそ、人生の皿は美しく回るのだと、私はそう思います。
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